仙道-全身周天

全身周天とは、小周天の後、全身のさまざまなルートに気を巡らせたり全身に気を満たす大周天の準備的な状態のことで、高藤さんの著書の中で使われた表現です。一口に全身周天といっても、小周天と同じように陽気を特定のルートに意識で導いていく段階から、全身に気を満たしさらには周囲に広げていく、といった段階まで結構幅があります。

私の場合は、割と早くから小周天と同時に(全身のいろいろなルートに気を流す)全身周天もやっていました。そのうち陽気を集めて少し意識をかけるとその陽気の圧力や痺れのような感覚が全身に広がっていくようになってきたので、全身に気を満たす全身周天もやってみることにしたのです。というか、全身に広がっていった時点ですでに全身周天だったわけですが……。
全身周天の状態には、小周天で気を一周させた後、腹部で温養し再び熱と圧力が強まってきたら、その圧力を全身に広げるようにすると入りやすかったですね。

全身周天では、腹部などに集まっている陽気を「解放」するようなイメージで全身に広げていったのですが、意識で広げていくというよりは自然に広がり始めた陽気を「集める」のをやめて全身に軽く意識をかける、という感じです。
腕や足に軽く意識をかけて陽気を流したり、全身に熱を感じ始めたらそれに軽く意識をかけると全身周天の状態になったりもしました。意識的に気を導いて流していく、というより自然に全身を満たす気を感じて瞑想する、というのが全身周天の特徴でしょうか。

陽気が全身に満ちてくると、全身に軽い痺れや圧力で満たされそれが周囲に広がっていくような感覚が出てきました。腹部や背中には強い熱を感じますが、全身では周囲と溶けあっているような感じですね。この状態で意識を「外す」と、何も浮かばない、あるいは普段「自分という意識」を認識している主体とでもいうべきものが消え、呼吸もほとんど止まったような状態になります。

私は時々家から少し離れた森林公園で全身周天をやっていましたが、この森で全身に気を満たしていくと普段の「視点」が消えて森だけが残るような、あるいは森そのものの感覚に溶け込んだような感じになりました。気を満たさなくても、坐忘(黙想)状態でもこれと同じような感じになりますが、全身周天で気を満たした状態だと普段の「自分という境界線」が消えた後に残る「認識作用」がより強くなるようです。これは、気を通して周囲に「自分」が拡がっていく(あるいは溶け込む)状態になるからでしょうか。