坐忘(黙想)

坐忘(あるいは黙想)とは、ただ忘れ黙ること。無念無想の境地で静まった心をただ見つめることです。

では、坐忘で何を忘れ、黙るのでしょうか。それは、いわゆる「表層意識」です。「言葉を思い浮かべ、その言葉で具体化した対象を追う心の動き」です。こうした(普段「自分自身」そのものとして意識している)心の声が黙り、自分自身と思っていたものが忘れ去られる時の在り方。それが、坐忘であり、黙想です。文字通りの無我、と言ってもよいかもしれません。

坐忘を行う際は、、まずは正座するなり適当に座るなり、楽に体を安定させられる姿勢で深呼吸します。そして、ひたすら意識を「外し」ます。想い浮かぶことや浮かんでくる言葉に「心の焦点」を合わせるのを止め、周囲の様子から意識を外してみましょう。すると、いつの間にか心の声が黙り、普段意識している「心の声を聞いている自分」が忘れ去られた坐忘、黙想に入っていることでしょう。

自らの心の「動き」を少し注意して観れば、常に心の声に意識を「乗せて」追いかけていることに気がつくでしょう。あるいは、常に意識の内に(言語的な)思いを「満たそう」としている、と言っても良いかもしれません。その「言葉を満たし追いかける」のをやめるのです。乗っかろうとせず、かといって乗るのを「止めよう」としない。ただ「外す」、心の内を「何か」で満たそうとするのを止めるのです。

これは、無念無想に「する」ことではありません。それでは、「何も思い浮かべないようにしよう」という思いに意識を「乗せる」こと、意識を乗せその思いで満たそうとすることになってしまうからです。最初のうちは、ひたすら「ボーっとした状態」でいるのが良いでしょう。いわゆる潜在意識から、様々なイメージがわいてくるかもしれませんが、それにも乗ってはいけません。
坐忘とは、意識的に何かを「する」「想い浮かべる」瞑想ではなく、ただ何かになろう、何かをしようという意識をも忘れて「ただ見つめる」もの。神秘行というと、イメージに「集中」する瞑想が中心になりがちですが、ちょっとした時間でも良いので、落ち着いて座りすべてを「忘れる」のも良いものです。