自己観察

心に生じる「思考」や「言葉」を、ただ見つめる。何か「好ましくない」ことを考えたり、あるいはあわてて「言い訳」をしようとしたりしていても、それをだた他人事のように「見つめる」。この種の自己観察は、神秘行だけでなく心理学的な手法としても用いられているようです。

この自己観察は、何をもたらすのでしょうか? それは、一言で言えば「覚醒」「心というものへの認識」です。「自分の意識」と思っているもの、心というものは、常に「言葉」の思いで「認識する主体」を満たし、「心の奥底」から目を逸らそうとします。それは、普段の人間は「心の言葉」に簡単にだまされ、だまされていることすら忘れ「一体化」しているからです。自己観察とは、この「心の言葉を追い、とらわれている自分の意識」に気が付くこと、心の言葉を追わず、離れて見つめることである、とも言えるでしょう。
自ら思い浮かべている(と感じている)心の言葉、思いがどこから来てそれが「自分」にどう影響しているのか……。その心の源と心が自らを見つめさせないよう「目を逸らさせる」仕組みを知った時、心が作り出す「過去と未来、ここではないどこか」が消え「今ここ」に生きることができるようになります。心の言葉は、「自分とは異なる対象」が、「今ここではない(決して現実とならない)いつかどこか」がなければ意味を失う、「現実」の前には無力なものだからです。

神秘行というものが、普段自ら作り出している幻影から離れ、また「真実」を覆い隠している夢から覚醒し、今ここに目覚めて生きるための手段だとすれば、この自己観察は最も簡単でまた難しい究極の神秘行と言えるかもしれません。自己観察は「ただ見る」、(心の動きにあわせて)何かを「しよう」とするのではなく「しようとするのをやめる」のですから、行法としてこれ以上に「簡単」なものはないでしょう。ただ自分が何を思いその思いにどう向き合っているのか、「観察」するだけです。
しかし、同時にこの自分自身を観察しているという「状態」を維持するのはきわめて困難なものでもあります。それは、多くの人はこれまでの生活の中で無意識のうちに自らの心をただ「見る」ことがないように、心の言葉を追いかけ続け「心の言葉に支配されている自分」に気が付くことがないように自らの生き方、自らを支配する「心」を作り上げてきているからです。

最初は一日数分でも自分自身の心をただ「見る」ようにする。そして、自分がいかに「心の声」に支配されているか、「認識」できたら、一度こう問いかけてみましょう。

果たして、この心の声は「私自身」なのだろうか?